笠原将弘の代表イメージ

人物 逆転のセオリー

日本料理「賛否両論」店主

笠原将弘

「『楽しい!』とか、『こんなの食べたことがない』、『また来たい』とお客さんから言ってもらえるのがいちばんうれしい」と笠原氏。

焼鳥屋に育ち、懐石料理の修業を積んだ料理人は、伝統的な和食に自ら考案した創作和食を融合させて一世を風靡した。2004年開店の「賛否両論」は昨年20周年を迎えた。しかし、華々しい活躍の背後には、早くして両親と最愛の妻を喪うという大きな哀しみがあった。試練の時を、料理人はいかに乗り越えてきたのか。

2025.7.24

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笠原将弘 かさはらまさひろ

1972年、東京都生まれ。高校卒業後、新宿の有名日本料理店で9年間修業。父が他界したのを機に実家の焼鳥店を継ぎ、人気店に育てる。2004年に「とり将」を閉店して、恵比寿に開店した日本料理「賛否両論」は、予約がなかなか取れない人気店に。雑誌連載、テレビ出演、食育など幅広く活躍するほか、2023年にはYouTubeチャンネル『【賛否両論】笠原将弘の料理のほそ道』を開設し、多くのチャンネル登録者を獲得している。『和食屋がこっそり教えるずるいほどに旨い鶏むねおかず』(主婦の友社)(「第10回料理レシピ本大賞【料理部門】」入賞)をはじめ、著書多数。

焼鳥屋育ちの料理人は、24時間料理のことを考える

 懐石料理と創作和食を融合させた斬新な日本料理で多くのファンを魅了する「賛否両論」は、2004年のオープン以来、“予約の取れない店”と呼ばれるほどの人気を誇ってきた。
 店主の笠原将弘氏は、2000年代から各種メディアに数多く登場し、斬新なレシピを提案。料理の腕前はもとより、巧みな会話も駆使して、美食家から家庭の主婦層まで幅広い人たちを虜(とりこ)にしてきた。
 生まれは東京都品川区の武蔵小山駅の近く。「とり将」という焼鳥屋を営む両親のもとで育った。
 「武蔵小山の大きな商店街で育ちました。両親が営む店には商店街の人がいつも来ていた。僕の子どものころは、武蔵小山はとても景気のいい町だったと思います。両親が楽しそうに働いている姿を見て、いいなと思っていました。だから自分の将来像としては、勤め人ではないと思っていた。でも、これになりたいという具体的なものもなかったんですよ」
 そんな笠原氏が憧れたのはパティシエ。高校時代のことだという。
 「日本人のパティシエが世界で活躍するテレビ番組を観て、恰好いいなと。まさに日本の代表みたいな感じで本場のパティシエから強敵と見なされていて、すごいことだと思いました。僕は父にパティシエの話をした。すると、自分の人生だから好きな仕事につけと言ってくれた。でも、父自身はパティシエという仕事はあまりわからない。それでも僕は、手に職をつけたいのだと言うと、日本料理なら紹介できると。父も若いころ、日本料理の修業をしていたので、知り合いがいたんですね」
 高校を卒業した笠原氏は、父の紹介によって、伊勢丹新宿店にある「正月屋𠮷兆」に修業に入った。大阪発祥の日本料理の名門である。笠原氏は、日本料理の職人を目指すことになったことに抵抗はなかったが、修業はかなり厳しいものだったという。
 「高校を出ると調理師学校へ行かずに、すぐに修業に入りました。初めて出る社会が日本料理の職人の世界だったわけです。父からは一人前になるのに10年、厳しい世界だと聞かされていましたが、入ってみて、こんなに怖いオトナがいるのかと思いましたね(笑)。教わるのはあいさつの仕方とか、料理以外のことばかり。作業といえば店の掃除や雑用で。家は借りあげのマンションに3人で入居していましたが、トイレや風呂の掃除は当然、いちばん下っ端の担当です。その寮に4年間いたのですが、いまでは考えられないくらい厳しい時期でした。僕らは昔のドラマや映画に出てくるような、昭和時代の板前修業をやった最後の世代じゃないかと思います」

新しい料理を考えるのが苦しいと思ったことはない。フレンチやイタリアンを食べて、和食に置き換えられないかと考えることも。

修業を終えて父の店を継ぎ、やがて独立へと向かう

 先輩や師匠からの厳しい指導が続き、悔しくて辞めてやろうかと思うこともあったという。それでも笠原氏は踏みとどまった。
 「ダイコンをおろす、米を研ぐ、魚の鱗(うろこ)を取る、エビの殻をむく。そんな単純な作業から、やがて賄いを任せてもらえるようになり、少しずつ、仕事を覚えている実感はありました。すてきな先輩もいましたし、料理への興味は増していきました。父も板前の修業をしていたから技術はありましたが、やはり懐石料理の世界は違います。厨房にはいい食材があふれ、器もすばらしかった。毎月、メニューが変わるたびに、新しく使う器の名前を覚えたり、花の飾り方を学んだり、お茶の作法を教わったり。面白かったし、本当に勉強になりました」
 修業に入って9年が過ぎ、順調に経験を積んでいた笠原氏に試練が訪れた。人生の師であった父が亡くなったのである。高校生のころに母を、そして20代の終わりに父を喪った笠原氏は、実家に帰り、父の店、とり将を継いだ。
 そして笠原氏は、懐石料理の修業で身に付けた知識や技術に新しい発想の料理を重ねることで、父の店を、地元や地元以外から訪れる人にも愛される新たな焼鳥屋に変貌させた。武蔵小山の小さな焼鳥屋にライターがやってきて、雑誌に記事が載るまでになった。
 「そのころ、イタリアンやフレンチ、和食の料理人たちと話していたのは、自分たちの世代でいままでの料理人の世界を変えたいということでした。みんな30歳そこそこでしたが、妙に自信がありましたね。売れると思っていた(笑)。僕も、自分の力がどれだけのものか試してみたいという想いがあった」
 2004年、笠原氏は両親から受け継いだとり将をたたみ、賛否両論を開業した。店は評判となり、雑誌や書籍の取材が殺到したが、笠原氏は一切断らずに対応し、自分のアイデアを生かした斬新なメニューや料理の工夫を世に広めた。やがて、テレビへの出演も始まり、レギュラー番組も決まるなど、多忙を極めるようになった。
 そんな笠原氏にさらに大きな試練が降りかかった。最愛の妻が懸命の治療もむなしく、39歳でこの世を去ったのだ。仕事に忙殺される笠原氏には3人の子どもたちが残された。
 昨年出版された著書『賛否両論―料理人と家族―』(主婦の友社)のあとがきで、家族のことを振り返ることになる本の執筆を引き受けたことを、本当に後悔したと綴っている。
 〈三人(両親と妻)の早すぎる死を、全く受け入れられていなかったんだと痛感させられた〉
 では、笠原氏はこの時期を、どのように生きてきたのか。

自分だけが不幸ではないと、無理やり思い込んでいた

 「妻が亡くなる1年前に、東日本大震災がありました。あのとき、一瞬のうちに家族を喪う人たちがいた。それを見ていたから、自分だけが不幸だと思ってはいけないと、どこかで無理やり自分に思い込ませていました。まだ小さい3人の子どもたちを食わせていかなきゃいけないし、仕事は本当に忙しかった。これだけ求められているのだからきちんとしなきゃいけないし、お店に楽しみに来てくださるお客さんに対しては、明るい表情できちんと仕事をするのがプロだとも思っていました。それでも、いまでも哀しい気持ち、淋しい気持ちになる。すぐには、立ち直れない。ただし、そんな気持ちも、時間がいやしてくれます。いまも淋しくなることがあるけれど、仕事を終えて毎日行くサウナで汗を流し、家へ帰って、好きなビールを飲めば、ああ、うまいなあと心が和むし、お笑い番組を観て、笑っている自分もいるんです」

トラブルや悩みごとの後には必ず、いいことが巡ってくる

 逆境を乗り越えるためのヒントについて笠原氏は、こんな話をしてくれた。
 「最近、トラブルが多いとか、悩みごとが絶えないとか、そういうときこそ、その時期が終わればいいことが巡ってくると思う。悪いことの後にはいいことがあるものです。店のトイレの壁には“血の掟”という僕の言葉を貼っているのですが、そのひとつに『終電を気にするな、始発がある』というのがあります。終電を逃しても、入ったボウリング場で女の子と仲良くなったり、入った飲み屋がとてもいい店だったり。失敗しても発見があるということですね」
 いまも24時間、新しい料理のことを考えているという笠原氏。今後やってみたいことを問うと、意外な答えが返ってきた。
 「もう一度、のんびり焼鳥屋をやりたい。仕込み、料理、接客、全部ひとりきりでやる小さな店をね」

HISTORY

1972年~の画像

2~3歳ごろの笠原氏。父と「とり将」の前で。

1972年~

東京に生まれる。2〜3歳のころ、父が東京・武蔵小山に焼鳥店「とり将」を開店する

1991年の画像

日本料理店時代の笠原氏(右)。師匠と。

1991年

高校卒業後、東京・新宿の有名日本料理店に就職する

1998年の画像

職場で知り合った江理香氏と26歳で結婚。

1998年

日本料理店での修業時代に出会った女性と、約4年の交際期間を経て結婚する

2000年

父の他界を機に、勤めていた日本料理店を退職し、焼鳥店、とり将を継ぐ。これまでに培った技と腕、独自のアイデアで同店を予約がなかなか取れない人気店に育てる

2004年の画像

2007年、「賛否両論」を開店してから3年後の笠原氏。

2004年

開業30周年を機に、とり将を閉店し、東京・恵比寿に日本料理「賛否両論」を開店する。独自の感性と味覚で作りあげた日本料理が評判となり、雑誌などメディアの取材を多数受け、注目を集める

2012年~

フジテレビ系列の『ノンストップ!』で火曜レギュラーコーナー「笠原将弘のおかず道場」を担当する

2013年

「賛否両論 名古屋」を開店

2019年

「賛否両論 金沢」(現在休業中)を開店

2023年

YouTubeチャンネル『【賛否両論】笠原将弘の料理のほそ道』を開設。『和食屋がこっそり教えるずるいほどに旨い鶏むねおかず』(主婦の友社)が「第10回料理レシピ本大賞【料理部門】」に入賞する

2024年の画像

『賛否両論 味の世界』(KADOKAWA)では賛否両論のレシピを公開。

2024年

賛否両論が20周年を迎える。20周年を記念して『賛否両論味の世界』を出版する

2025年の画像

多忙な毎日だが、可能な限り店に立ち腕を振るう。

2025年

YouTubeチャンネル『【賛否両論】笠原将弘の料理のほそ道』のチャンネル登録者数が100万人を突破する

取材・文/大竹 聡 写真/鈴木 伸

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