岸本葉子の代表イメージ

人物 逆転のセオリー

エッセイスト

岸本葉子

「あるある」と共感できる等身大の日常などをつづった岸本氏のエッセイは、多くの読者の支持を集めている。

日常生活や旅の記録をエッセイにまとめ、発表してきた岸本葉子氏は、40歳でがんを告知され、周囲に告げぬまま不安な心を抱え闘病生活を送った。そして50代には、認知症を患った父の介護にあたって、さまざまな困難に遭遇した。人生にふりかかる予想もつかない困難の連続を、岸本氏はいかに乗り切ったか。

2025.4.23

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岸本葉子 きしもとようこ

1961年、神奈川県生まれ。東京大学教養学部卒業後、生命保険会社勤務を経て、中国の北京外国語学院に留学し、アジア各地を旅する。帰国後はアルバイトなどを経て、台湾の紀行文『微熱の島 台湾』(凱風社)を上梓。以後、何げない日常や旅、2001年に患った虫垂がんや介護などの経験を題材に多くのエッセイを発表。新聞・雑誌などへの連載や、テレビ・ラジオ出演等活躍を続けている。『がんから始まる』(文春文庫)、『俳句、はじめました』(角川ソフィア文庫)、『週末介護』(晶文社)、『60 代、不安はあるけど、今が好き』(中央公論新社)など著書多数。

 エッセイストの岸本葉子氏は、旅、暮らし、自らのがん闘病、俳句、さらには親の介護と看取りなど、非常に幅広いテーマで読む人の心に寄り添う数々の作品を世に送り出してきた。その半生で経験した困難な状況を、いかにして乗り越えてきたのか。その秘密のひとつは、中学生のころの習慣にあるという。
 「小学生のころは、将来はどこかにお勤めをしてお給料をもらう大人になるのだろうと、ぼんやり考えていました。本が好きで、さまざまな図鑑や日本の民話、世界の童話、地球や宇宙といった理系の本などを好んで読みました。文章を書くようになったのは中学3年生のときです。思春期に感じる周囲との違和感や自分自身との対話を日記に書いた。この経験が後に大いに役立ちます」

 しかし、日記として文章を書くことはこの時期を過ぎると途絶え、さまざまな分野の本に興味をもった高校時代の岸本氏は、多様な学科を学びたいと思い、東京大学の教養学部へ進学した。
 「大学時代もこんな職業につきたいという具体的なイメージは持っていなくて、卒業後は生命保険会社に就職しましたが、しばらくの間は、モラトリアムでしたね。当時、住んでいた家と会社の間に大学があり、卒業生なので図書館を利用できるのですが、残業が多くてなかなか立ち寄れないのです。ああ、このまま、若い日々が終わってしまうのか。そんな焦燥感が生まれました」
 会社と自宅を行き来するばかりの毎日。そこから脱却するために、岸本氏は、会社を辞めて留学することを決意した。

 「ひとりで旅をしたこともなかったのですが、お隣の中国なら漢字を読めば意味だけはわかるから大丈夫ではないかと思って留学しました。当時の中国は、のどかで、いろいろな見聞ができる国でした」
 帰国後、新聞社の雑誌編集部門でアルバイトをしながら、留学で覚えた中国語が使える台湾へ旅をした。その当時はまだ、台湾を紹介する本も多くはなく、岸本氏はこの旅の経験を書いてみることにした。ここが人生の転機だった。

小さな出版社を探し、原稿を持ち込んだ

 「原稿を書き終えたとき、昔、林 芙美子とか、近代の作家たちが自分で出版社へ持ち込んだことを思い出し、私もそうしてみようと思いました。しかし、私が書くものは、受付のあるような大きな出版社では出してはもらえないだろうと考え、小さな出版社を探しました。住所にオフィスの部屋番号の表記があるような小さな出版社を選んで、原稿を持ち込んだのです。そのときに出版できたのが、『微熱の島 台湾』という、私の最初の本でした」

 岸本氏のエッセイストとしてのスタートラインは旅をテーマとしていた。しかし、その後は、方針を少し変えていった。
 「どこかへ行って、そこのことを書く。旅ありきで成り立つ文章だけではなく、日ごろの生活のなかで考えることを文章にしたいと思うようになりました。でも、アルバイト先の編集者は私に、普通のことは文字になりにくいと教えてくれました。何か特別なものをもっている人はそれを書くのがいいが、私のように特別な経験をもたない人が、何かあると勘違いしてもダメなんだということです。でも、その一方で私は、ごく普通のことに共感する人はきっといるだろうと考えたのです。『微熱の島 台湾』は鳴かず飛ばずでしたが、雑誌編集のアルバイトをしながら勉強して、20代の終わりごろには、エッセイを書くことでなんとか食べられるようになりました」

 与えられた企画において自分が求められていることは何か。それをよく考え、求められていることに応える文章を書く。そのために、周囲をよく観察し、できるだけものごとに対して心を開き、自分の価値観にこだわって異なった視点から見る柔軟性を失わないよう、努力をしたという。
 そうして、日常のなかにある、普通のことを書くエッセイストとして活躍する日々が続いた40歳のとき、岸本氏は、がんを告知された。このときから、岸本氏は、普通ではない体験を重ねていくことになる。

大学ノートに毎日書くことが、がん闘病を支えてくれた

 「がんの告知を受けたときは、入院までの間に締め切りがくる原稿の準備をするなど、忙しく過ごしたのですが、入院した後は、あらゆることをノートに書いて過ごしました。毎日の検査や医師からいわれたことや考えるべき課題のほかに、病院で見る光景と、それが私に考えさせたことなどを、とにかく書きました。中学3年生のとき、ほぼ1年間、日記を書き続け、自分と向き合った経験が、がんの闘病をしたこの時期に、心の整理をするための支えになりました」

 告知されたときより、手術や治療が終わったときのほうが、不安は大きくなった。そのことを、岸本氏はどのように書いたのか。
 「治癒の確率は30パーセントと医師に告げられたとき、人はどう思うか。100パーセントから30パーセントをマイナスし、70パーセントは治らないと考える。それが自然だろうと、私は書いた。恐い、だれか助けて、という書き方はしませんでした。また、がん患者であることを周囲の人たちに隠して生活するなかでは、来年や再来年の話題が出ても、来年生きていられるのかという思いから、それをうまく受け止められなくなります。社会と自分が分断される感じがするのです。でも、その気持ちを放置せずに書きつけていくことで、心の整理ができるようになりました。自分が危機にあることを書くことで、危機を脱することができたのです」

予測不可能なことを受け入れる点で俳句と闘病は似ている

 岸本氏は、書くことによって心を支え、40代を過ごすなかで、俳句に出合った。
 「俳句に、あいにくの雨はないと教わりました。桜の咲くころ、桜を詠みに行くとして、その日が雨だったなら、雨の桜を詠むだけのこと。予測不可能であることに耐え、最初の思いのとおりにいかないことをも、受け入れる。私はそういうことを知ったときに、俳句と闘病は似ていることを、初めて知ったのです」

認知症の父の介護では、知ることで不安を解消

 岸本氏は、がん闘病の経験を書き、句作に出合い、小説の執筆も始めた。書くこと、言葉にすることは生活の糧を生むことであり、心の支えにもなったという。そして50代。認知症を患った高齢の父の介護をすることになった。
 「私の話しかける言葉をおうむ返しにするしかない父を見たとき、私が父の命の全責任を負っていると感じました。最初のころは、認知症を知らず、知らないということが不安の原因でした。しかし、高齢の人の身体に起こることを知るにつれて、不安を解消していくことができました。私はがんになったとき、来年のことも考えられない不安のなかで暮らしましたが、私が見ている父は、それ以上の不安を抱えて生きている。そういう姿を見て、よく知ることで、父の姿に尊敬と共感が生まれてきました。父の心と身体に起きていることを知ることで、親が老いることへの戸惑いも薄らいでいきました」

さまざまなことを面白がれるよう、心をオープンにしているという岸本氏。「読後感は前向きになるように書いています」という。

 岸本氏は、経験したこと、見たこと、感じたことを書き、言葉を書くことによって考えを深めてきた。書くのと同様に、話すことも、経験や感情を言葉にすることから、やはり考えることに繋がるという。そしていま、60代になり、親の介護も終えて、また、新たなことに考えを及ぼしている。
 「長い間、いろいろなテーマでものを書く仕事をしてきましたが、若いころといまとでは、書いていることはまるで違います。がんを経験したときには、自分には老後というものはないだろうと思っていました。でもいまは、老後を賜った時間だと考えています。せっかく賜ったのだから、不安を抱えて生きるより、もっと大事に過ごしたい。少し時間ができたら、洋裁をやってみたいですね。いまは、そんなことを考えています」

HISTORY

1961年の画像

1970~1971年ごろ、小学4年生の岸本氏。

1961年

神奈川県鎌倉市に生まれる。子ども時代は将来文筆家になるという夢を抱くこともなく、理系の科目が好きだった

1975年〜

公立中学の3年生のころ、ほぼ毎日日記をつづり、自分との対話を続けた

1984年

東京大学教養学部を卒業。生命保険会社に就職する

1986年の画像

会社員時代の岸本氏。当時のオフィスにはパソコンがなかった。

1986年

中国の北京外国語学院に留学。アジアを旅する

1987年の画像

1988年ごろ、ライターとして駆け出しのころの岸本氏。

1987年

留学を終え帰国。帰国後はアルバイトとして働く

1988〜1989年

台湾へひとり旅をして、その旅行記を出版社に売り込む

1989年

『微熱の島 台湾』(凱風社)を出版

2001年の画像

2004年、病後初の海外取材でモンゴルへ。

2001年

虫垂がんを患い、手術を受ける

2008年

テレビ番組への出演をきっかけに、俳句を始める。小説の執筆を始める

2009年

父の介護が始まる

2014年

父が他界し、介護が終わる

2015年

初の長編小説『カフェ、はじめます』を出版

2015〜2022年

「NHK俳句」の司会を務める

2017年

ジムでZUMBAを始める

2021〜2025年の画像

2024年12月発行の『60代、不安はあるけど、今が好き』(中央公論新社)を出版。

2021〜2025年

NHK「ラジオ深夜便」で毎月1回「岸本葉子の暮らしと俳句」に出演

取材・文/大竹 聡 写真/藤田修平

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