明治期創業の老舗旅館には、創業以来120年余りにおよぶ歴史がある。関東大震災、第二次世界大戦、オイルショック、コロナ禍など数々の危機に直面し、令和のいま、お客様の望むことに快く対応し、行動で示すホスピタリティーを目指す現代的ホテルへと変貌した老舗旅館は、いかなる困難を乗り越えてきたのか。
2025.5.23
浜田敏男 はまだとしお
1954年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、銀行勤務を経て、龍名館に入社。社長就任後は、2009年、東京駅前の「ホテル八重洲龍名館」の全面建て替えを行い、スモールラグジュアリーホテル「ホテル龍名館東京」を開業。2014年には、御茶ノ水の本店「旅館龍名館本店」を小規模型高級ホテル「ホテル龍名館お茶の水本店」へとリニューアル。2018年には東京・虎ノ門エリアにコンセプトホテル「ホテル1899(イチハチキュウキュウ)東京」を開業。ホテル龍名館東京は『ミシュランガイド東京』で9年連続(2012~2020年版)で二ッ星(パビリオン)を、「ホテル龍名館お茶の水本店」は同誌で7年連続(2015~2021年版)で三ッ星を獲得するなど、いずれも国内外から高い評価を得ている。
「旅館龍名館本店」は、江戸時代から続く名旅館、「名倉屋旅館」の分店として、1899(明治32)年、東京の神田駿河台に創業した。現在の代表取締役は創業家の5代目にあたる浜田敏男氏。創業の地にある「ホテル龍名館お茶の水本店」のほか、東京駅北口には「ホテル龍名館東京」を、さらに新橋には「ホテル1899東京」を展開。ホテル、ホテル内のレストランなどの飲食、不動産の3業種で運営をしている。
龍名館の本家にあたる名倉屋旅館は、江戸時代から日本橋で営みを続けていたという。
「名倉屋旅館は、幕末のペリー来航の際、一行を接待した『百川楼』という料亭の隣にありました。百川楼は幕府に命じられて一行をもてなしたのですが、幕府はその費用を払えず、百川楼の経営は破綻したといいます。一方、名倉屋旅館は明治の初期、ロシアからニコライという正教会の伝導者が来るという情報を得て、御茶ノ水の崖の上の土地を買った。後日それが1000倍とも1万倍ともいわれる高値で売れ、その利益で現在の本店の土地と、百川楼のあった日本橋の地所を取得できたのです」
そして1899年創業の龍名館の名は、明治後期以降、大正、昭和へと続く時代に広く知れ渡っていった。
「日本画家の川村曼舟や伊東深水などの文化人に愛され、作家の幸田 文は、傑作『流れる』で、帝国ホテルと並ぶ名店として旅館龍名館本店を挙げています」
龍名館には創業から120年を超える歴史がある。そこには、数々の困難な時期があったという。1923(大正12)年の関東大震災では、駿河台の本店のほか、呉服橋の支店、神田猿楽町の分店の3店舗を火災によって失ったのだ。
「全店舗を焼失しました。当時のお客様に、山形県酒田市の大地主で本間様という豪商がおられました。この本間様からお金を借りて、1926(大正15)年に呉服橋の支店を、1927(昭和2)年には、駿河台の本店を再建することができました」
次の危機は、第二次世界大戦だった。東京大空襲で、呉服橋の支店をふたたび失ったのである。
「幸い、駿河台の本店は焼けませんでしたが、このときも、さまざまなお客様のご支援によって復興しました。その次の大きな危機は高度経済成長期直後の第一次オイルショックです。木造の建物だった本店をビルに建て替えることが決まっていたのですが、直前になって銀行は掌を返し、融資をしないと通告してきました。当時の建物の1階にあった家族の居間で、父が黙って天井を見つめ、何日も考え込んでいたのをいまもはっきり覚えています」
代替わりをするたびに相続税がのしかかる
このときの資金繰りは、やはり常連客だったある銀行の副頭取が融資を決めてくれたことで乗り切ることができた。しかし、このときの苦労から、浜田氏の父は、身内にひとりは金勘定に強い人間がほしいと考えていたという。その父の意向もあって大学卒業後に銀行に就職した浜田氏は、9年間銀行マンとして働き、世の中の仕組みを理解していったという。
「父が病気をしたことをきっかけに、32歳で家業へ入りました。従業員のなかには、休憩室で麻雀をしたり、店の飲み物を飲んでしまったり、銀行マンだった私には想像もつかないような行動をする人たちもいました。しかし、なんとか融和しないといけない。私は彼らと同じ賄いを食べ、距離を縮めました。また、経営上で問題になったのは、代替わりをするときにかかる相続税でした」
龍名館の本家にあたる名倉屋旅館は江戸時代から昭和まで日本橋で営みを続けたが、経営が芳しくなくなったため、龍名館が買い取った。しかし、龍名館の2代目から浜田氏の父である3代目へ代替わりをするときには、旅館の名倉屋本店を売却して得たお金を相続税に充てるしかなかった。
「当時の私は、税金を納めるというより、財産を国庫に没収されるように感じました。このままでは、代替わりをするたびに不動産をひとつずつ失う。存続するためには、その代ごとに新たな不動産を取得しなければならない。そう私は考えました」
浜田氏は、龍名館入社の9年後には副社長に就任、さらに10年後の2005年には、兄に代わって5代目社長に就任し、そのころから、大きな改革に着手する。1963(昭和38)年以来、旅館と貸しビルの複合ビルとしていた「ホテル八重洲龍名館」を、15階建て135室のホテル龍名館東京に建て替えた。創業110年の記念の年のことだった。
現代的な設備を完備しつつ、創業以来の精神を維持する
1975(昭和50)年に建て替えた本店ビルは、2014年に改装し、ホテル部分を全室スイートルームのみとしたホテル龍名館お茶の水本店としてリニューアルオープンした。
2018年には浜田氏の代で新たに取得した新橋の土地で、ホテル1899東京を開業した。新たな資産も手に入れて、さらなる繁栄への道筋をつけた。
「龍名館とは何か。飲食も不動産も手がけますが、龍名館とは旅館なのです。現代的なハードウエアを備えつつ、昔ながらのおもてなしの精神をもった旅館。時代に合わせた快適さを提供するために変化し続けながら、一方で、変えてはいけない創業以来の精神を維持する。その精神とは、ホスピタリティーです。ホスピタリティーとは言葉でなく、行動です。お客様が望んでいることに快く対応して、お客様のお気に召すように動きで示す。お客様のお好みの枕の硬さを確かめたり、駅に忘れ物をしたなら、一緒に行って駅員さんとのコミュニケーションのお手伝いをしたり。そんなささいな行動のことだと思います」

逆境に遭遇したときは、真正面から対応すること
浜田氏は、幼少期は身体が弱く、病がちだったという。体力がついたのは中学に入ってからで、弓道部に所属した。このとき、自分は凡人中の凡人だとわかり、人の10倍努力して初めて人並みになれるとするなら、自分は11倍やれば人より秀でることができるのではないかと考えたという。
「人の11倍やろうと決めて努力しました。その結果、中学では主将、高校、大学では副将を務めるなど、活躍することができました」
この実直な姿勢は、いまも変わらない。コロナ禍への対応がその一端を示している。
「近年の最大の危機は、やはりコロナ禍でしたね。本店は休業しましたし、八重洲のホテル龍名館東京も、全135室のうち稼働が10室ということもあった。法人向けの営業に重点を移したり、テレワーク環境を取り入れたり、さまざまな方策を講じました。幸いにも不動産収入があることで、なんとか切り抜けることができました」
父の代から始めた貸しビル業を実直に守り、堅実な経営に集中したことで危機を乗り切ったのだ。
経験上で知ったストレス解消法を手帳に列挙して持ち歩く
思わぬ逆境に立たされたとき、人はどう対処すべきなのか。浜田氏の考えは明快だ。
「経営者としての困難な状況はつねにありますが、大事なのは真正面から対応することです。ただし、それには大きなストレスを伴い、胃痛や腹痛が出る。眠れない苦しい夜を過ごすこともある。そんなとき私は、独自のストレス解消法を実行します。室温を下げるとか、好きな音楽を5分以上聴くとか、美容院に行くとか、軽い飲酒をするなど、経験上で知ったストレス解消法ですが、私はこれらを救済リストとして手帳に列挙しています。強いストレスを感じたらこれを見て、そのときすぐにできる解消法を実行します。こうして、ストレスにも正面から向き合えば、なんとか解消できると思っています」
HISTORY
1899年
「旅館龍名館本店」が開業
1909年
本店の分店として「旅館呉服橋龍名館」を開業
1923年
関東大震災で旅館龍名館本店、支店、分店が焼失

「旅館龍名館本店」。
1927年
旅館龍名館本店を再建
1944年
第二次世界大戦下で、新館8室と広間が「大東亜省」の官舎となる

1962(昭和37)年ごろ、幼少期の敏男氏(左)。
1954年
龍名館3代目社長の浜田 隆氏の次男として、敏男氏が東京都に生まれる

弓道に打ち込んでいた19歳、大学1年生のころ。
1963年
旅館呉服橋龍名館を改築し、「ホテル八重洲龍名館」を開業

22歳、銀行に入行したころの浜田氏。
1977年
慶應義塾大学法学部卒業後、旧太陽神戸銀行(現・三井住友銀行)に入行
1986年
父が病に倒れたのを機に、龍名館に入社
1995年
龍名館取締役副社長に就任
2005年
龍名館代表取締役社長に就任
2009年
ホテル八重洲龍名館を解体し(2007年)、「ホテル龍名館東京」を開業
2014年
旅館龍名館本店を改修し、「ホテル龍名館お茶の水本店」を開業

「ホテル龍名館東京」のロビー。
2018年
「ホテル1899東京」を開業
取材・文/大竹 聡 写真/鈴木 伸