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人物 逆転のセオリー

廣田硝子代表取締役社長

廣田達朗

「大正浪漫硝子」のタンブラーを持つ廣田達朗氏。手間がかかっても、こだわりのある商品を作ることを心がけている。

明治後期に東京に創業したガラス製造の会社は、関東大震災と太平洋戦争で壊滅的な被害に遭いながらも、4代にわたってガラス食器の伝統を守ってきた。その過程で立ちはだかった難局を乗り越えさせたのは、人にしか作れない商品だった。技術はいかにして受け継がれたのか。現社長が先人への想いを込めて述懐した。

2025.6.24

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廣田達朗 ひろたたつあき

1972年、東京都生まれ。1899(明治32)年創業の硝子メーカーの4代目。同社が扱う品目は800点以上で、創業以来同社に伝わる貴重なデザイン資料を基に、東京都指定の伝統工芸である江戸切子、江戸硝子や吹きガラスなど手仕事による伝統的製造を継承。新しい商品や復刻商品など、現代のインテリアに調和するプロダクトを作り続けている。同社の商品は、2017年「グッドデザイン賞」「GOLDEN PIN DESIGN AWARD Best Of Golden Pin Design」、2018年「グッドデザイン賞」、2020年「グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」など受賞多数。

 創業1899(明治32)年の廣田硝子はガラス食器メーカーの老舗だが、創業当初に扱っていたのは食器ではなかった。同社の4代目で現在の社長を務める廣田達朗氏は、明治から大正にかけての同社の歴史をこう振り返る。
 「日本へのガラスの伝来には諸説ありますが、本格的に国としてガラス製造が始まったのは明治時代からです。当時の日本では明かりはロウソクに頼っていたのですが、ここにランプが登場しました。私の曽祖父が創業したときは、石油ランプの火屋(ほや=ガラス製のランプシェード)の販売を行い、後に製造も手がけました。しかし、時代が進み、ガス灯や電気が登場すると、石油ランプは使われなくなり、当社も石油ランプからガラス食器に移行しました」
 明治維新以降、大正時代にかけての日本では西洋化が一気に進み、ワインなどの洋酒を飲む機会も増えたことから、ガラス食器が使われるようになっていた。廣田硝子では、ビールや乳酸菌飲料の宣伝用グラスや金魚鉢、店頭で煎餅などを入れる地球壜(びん)という大きなガラス瓶なども生産して、時代の流れに乗っていった。しかし、そこに大災害が襲う。
 「関東大震災で壊滅的な被害を受け、さらに20年たたないうちに、太平洋戦争で再び壊滅的な打撃を受けました。当時、工場のあった墨田区の錦糸町界隈はたびたび空襲されています。工場も商品もすべて失ったのが、当社の2代目、私の祖父のときです」
 戦後に復興した廣田硝子は、食器を中心にガラス製品の企画・デザイン・販売を手がける、工場をもたないメーカーとしての道を歩み始めた。
 「ブランデーグラスを模したガラスの灰皿は、何色もの色ガラスを手吹きで成形した商品で、1967(昭和42)年の発売以来好評を博し、全国各地へ出荷するほどによく売れました。ほかには、花柄のプリントグラスのシリーズも人気の商品に成長しました」
 しかし、日本の高度経済成長に伴って訪れた大量消費時代には、新たな課題が立ちはだかった。
 「ガラス作りは、原材料の珪砂(けいさ)を約1400度の炉で溶かし、職人が成形していく過酷な労働であり、人件費比率も高いのです。戦後すぐの日本は人件費が安い国だったため国内生産で利益を出すことができましたが、高度経済成長期を通じて日本人の賃金が上昇すると、低賃金のアジアの国々への生産移転が行われるようになりました。工場での機械生産でガラス食器を生産する場合、1日10万単位の個数を作らないとコストの回収ができません。かといって、10万単位の食器を売りさばくのも簡単ではありません」
 生産現場に過酷な労働を強いる製品を大量生産しても価格競争になるばかりで、展望が開けない。時代の流れは、廣田硝子にとっては逆境であり、乗り越えなければならない壁だった。

明治・大正期のガラス作りを再現する

 1970年代に入ると、廣田硝子は、ビジネスの国際化と技術革新に着手した。
 「ヨーロッパの展示会に出品して高い評価を得る一方で、機械による生産では作ることのできないもの、つまり人の手でしか作れない製品で差別化を図っていく方針を明確にしました」
 差別化のために挑んだのは、明治・大正期に一世を風靡し、その後、技術が途絶えた乳白ガラスを現代によみがえらせることだった。乳白ガラスは無機物であるケイ素と有機的な原料である骨灰(こっかい)を掛け合わせ、あぶり出すことで真珠のような色合いを出すという、稀少な技術によって作られる。これは、機械では作れないもの、まさに、人の手でしか作れないガラス食器だった。
 「乳白ガラスの製造に関する文献をひもときながら模倣を試みたけれど、失敗の連続だったと父から聞いています。レシピどおりに作っても狙った通りにできあがらない。それがガラスなのです。職人の経験値に頼る部分がとても大きいため、その時代を知る職人がいないなかでの技術の再現は、相当に困難なことでした」
 古いものを再現することとは、新しいものを創造することであったのかもしれない。そして、何度失敗しても諦めない姿勢を貫いた廣田硝子は、魅惑的な乳白ガラスの復興を果たし、「大正浪漫硝子」として、世に送り出した。
 この当時、会社を率いていたのは、創業家の3代目の廣田達夫氏。現社長である達朗氏の父親(現在は会長)である。

硝子は原料も作り方もほぼ世界共通。職人さんの経験値や培われた文化が商品に宿ると廣田氏は語る。「硝子メーカーはひとりではできない仕事。職人さんや工場との関係性は大切にしています」。

人の手でしか作れない伝統のガラス食器で差別化を図る

 人の手でしか作ることのできないガラス食器を志向した廣田硝子は、江戸時代に日本で生まれた江戸切子の生産にも尽力した。江戸切子は1985(昭和60)年に東京都伝統工芸品に指定されたのだが、2011年には、達夫氏がJETRO(日本貿易振興機構)の海外支援事業として海外まで江戸切子の技術指導に出向くなど、その普及にも努めた。現社長の達朗氏が入社したのは90年代の終わりごろだ。
 「日本のガラス食器は長い間、舶来品のイメージで売れていました。ヨーロッパへの憧れを反映したものだったのです。そんななか、江戸切子に深い思い入れがあったのが、私の父です。わずか数名で営んでいるような小さな会社が、この技術を守ってきた以上、江戸切子は東京の伝統工芸として残さなければならない。そんな想いがあったのだと思います」
 2013年に2度目の東京五輪開催が決まると、江戸切子は東京の地場産業のひとつとして注目を集めるようになり、現在では、ヨーロッパの有名ブランドの高級品にまったく引けをとらない「和」の美しさで、国内外から高い評価を得ている。

祖父も父もとにかくガラスが好き

 2010年代には、4代目の達朗氏を中心とした商品開発が進められた。色ガラスと乳白ガラスを掛け合わせたグラスの「花蕾(からい)」や、微細な江戸切子の技術を生かした「江戸切子蓋ちょこ」などを発売。伝統の技術に現代のセンスを融合させた品々は、「和」のテイストを前面に出していて、容易な模倣を許さない美しさで魅了する。
 石油ランプのシェード作りから始まった廣田硝子の歩みは、江戸に伝わった技術を継承し、復興し、新たな技術と融合させて、数々のガラス食器に辿り着いた。4代にわたってガラスひと筋にやってくることができた理由を、達朗氏はこう語る。
 「私は2代目に当たる祖父と父を見て生きてきました。祖父とはガラスについてあまり言葉を交わしたことがなかったのですが、当時から継続して現在も販売している商品を見て感じるのは、祖父は本当にガラスが好きだったんだな、ということです。父の場合はより強く、ガラスを作る仕事が好きであることがわかります。ガラス作りに本気で取り組めたのは、心底ガラスが好きだからこそだと思います」
 跡を継いだ達朗氏は、先人たちの功績をまとめ、日本のガラスの歴史や日本固有の技術、和の食文化のなかで生きる日本の食器としての魅力を、もっと広めていきたいと考えているという。
 「2022年に『廣田硝子 和ガラス美術館』を再オープンし、和ガラスの変遷、生活に使われたさまざまなガラス製品を展示し、ガラスの素材や製造法がわかる映像や、国内外のガラスに関する貴重な蔵書も並べています。こうした活動を通じて、もっと多くの人に、ガラスに興味をもってもらえるようにしていきたいですね。それと今後の目標としては、割れてしまったガラス食器を回収して新たな品に作り替えることにも挑戦したい。ガラスが好きであることを継承し続けていきたいと思います」

HISTORY

1899年

廣田金太氏(初代)が「廣田金太商店」を創業

1915年

東京市本所区横川で硝子コップを製造開始

1920年

廣田榮次郎氏(2代目)が事業を拡大。東京の硝子産業の発展に尽力

1950年の画像

1950(昭和25)年当時の社屋。

1950年

廣田硝子設立

1972年の画像

1977(昭和52)年、幼少期の達朗氏。

1972年

廣田達朗氏、東京都に生まれる

1995年

達朗氏、日本大学文理学部社会学科を卒業、藤屋に入社

1997年の画像

1997年、花蓮(かれん)の海で、台湾留学中にお世話になった一家と(左からふたり目が達朗氏)。

1997年

達朗氏、藤屋を退社。台湾の國立臺灣師範大學國語教學中心に留学

1998年

達朗氏、台湾留学を終え、廣田硝子へ入社

2002年~

廣田達夫氏(3代目)が大正時代に流行したクラシックグラスの復興に貢献

2004年

「すみだ江戸切子館」を開館

2007年の画像

2008年、社長就任1年後に家族と(左端が達朗氏)。

2007年

達朗氏が代表取締役社長に就任

2013年

「青竹酒器三点揃い」が観光庁主催「魅力ある日本のおみやげコンテスト2013」で「COOL JAPAN部門」銀賞を受賞

2017年

「廣田硝子 すみだ和ガラス館」を開館。「ペンダントライト」が「グッドデザイン賞」を受賞。「花蕾(Karai) 大正浪漫硝子」が「GOLDEN PIN DESIGN AWARD Best Of Golden Pin Design」を受賞

2018年

「WAYOU 大正浪漫硝子」が「グッドデザイン賞」を受賞

2019年

「花蕾(Karai) 大正浪漫硝子」が「German Design Award Winner2019」を受賞

2020年

「元祖すり口醬油差し」が「グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」を受賞

2022年

「廣田硝子 和ガラス美術館」を再開館

取材・文/大竹 聡 写真/鈴木 伸

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