勉強も運動も苦手だった少女時代、初めて作ったクッキーは、とてもおいしかった。それが原体験となって料理研究家の門を叩くが、勤めたのはわずかに1年半。20代半ばから、独学によって料理研究家の道を歩んだ。そこは、失敗に次ぐ失敗の日々。だれよりも失敗したと振り返る特異な経験から料理研究家は何を学び、逆境を乗り越えてきたのか。
2024.11.25
瀬尾幸子 料理研究家
PROFILE せお・ゆきこ 1959年東京都生まれ。料理研究家の助手を経て、器のスタイリストなどとして経験を積んだ後、料理研究家として活動。自ら重ねてきた失敗の経験を生かし、「ラクうま」をキーワードに、料理ができなくて困っている人でも手軽においしく作れる料理を雑誌、書籍、テレビなどで提案するほか、食品メーカーの料理開発などでも活躍。「料理レシピ本大賞 in Japan」で大賞を受賞した『ほんとに旨い。ぜったい失敗しない。ラクうまごはんのコツ』(新星出版社)、『みそ汁はおかずです』(Gakken)ほか、著書多数。
簡単でおいしいレシピの数々を独自に考案し、多くのファンをもつ料理研究家の瀬尾幸子氏。独創的なアイデアを繰り出し、数々の料理本を発表する傍らテレビ出演もこなすなど、旺盛な活動を展開している。ぼんやりした子だったと振り返る幼少期に、料理との接点があったという。
「勉強も苦手、運動も苦手で、何もできない、自信のない子でした。自転車にも乗れないし、泳げないし。小学校にあがった年の水泳の時間にハクチョウの形をした浮き輪を持っていったら、先生に『これはしまっておきましょうね』っていわれて(笑)。小学5年生のころ我が家にオーブントースターが来ました。オーブンではなくて、温度調節もできないような、昔のオーブントースターです。私は砂糖とバターと小麦粉を混ぜてクッキーの生地みたいなものを作り、抜き型がないので生地を手で延ばして焼いてみたの。そうしたら、すごくおいしいのができちゃった。サクサクで、『鳩サブレー』みたいにおいしい。これが、料理に興味をもった最初の最初かもしれません。それ以来、いまに至るまで何回作ってみても、二度と作れない幻のサクサクサブレなんです」
とはいえ、その後の瀬尾氏は料理の道を目指したわけではない。中学・高校時代も、とくに将来への夢を描くことはなく、大学は人文学部の芸術学科に進んだ。
「高校時代、ちょっと裕福な友人の家によく泊まり込んでいたんですが、その友人と一緒に料理をし、何も知らない私はグラタンの作り方を教わったりしました。大学のころは借りていたアパートでいろいろ作って友達に振る舞い、みんなが『おいしい』と喜んでくれるのがうれしくてね。就職先に困っていたときに、興味があるのは料理くらいだから、料理研究家の助手の求人にダメ元で応募しました。結果は不採用でしたが、しばらくして先生から『来なさい』って連絡がありました。1名だけ採用された人が、あまりにも厳しい職場に音をあげて、来なくなっちゃったらしいんです。私は次点だったんですね。応募してくる人は家政学部とか栄養学科とか、ちゃんと勉強してきている人が多く、先生は、少し毛色の違う学生に興味をもったのでしょう」
料理研究家の見習い時代初めての逆境を経験
瀬尾氏が付いた先生は、料理研究家の大原照子氏。瀬尾氏は3番目のアシスタントとして、日々の買い物の担当になった。
「毎日、青山の『紀ノ国屋』に行くんです。そこで『いちばんいいものを選んで買ってきなさい』といわれていて、青物などもひっくり返していいものを探しました。売り場のおじさんから『野菜をひっくり返さないでくれ』と注意されるくらい一生懸命やりました。でも、先生からいわれた食材を、当時の私は全然知らない。『網脂(あみあぶら)』といわれても、なんのことだかわからない。あるとき、『オレンジを買ってきて』といわれて、私、イヨカンを買って帰ったら、『オレンジも知らないの?』って、先生、愕然(がくぜん)としていました」
料理の勉強をしたことはなく、ものを知らないから、瀬尾氏は極度の緊張状態で日々を送った。セカンドのアシスタントから渡される手書きのメモから買い物リストをつくり、買い出しに行くのだが、たびたび失敗をした。それだけでなく、先生の大事にしている器を落として割ってしまったこともある。そのたびに叱られ、お詫びをし、反省する日々。けれど、瀬尾氏はめげなかった。
「面白かったんです。見たことも聞いたこともない食材が紀ノ国屋には並んでいる。宝の山に見えました。塩鮭がその当時で1切れ800円もする。でもそれは、すごくおいしいんです。牛肉の切り落としも100g1,600円するのが、いちばん安いの。このふたつを年末のお給料をもらったときに買うことが、あのころの楽しみでした」
ある日、瀬尾氏は先生から呼び出された。その日は休日。何かまずい話があるのではという予感は的中した。先生はいった。
「私は、あなたの性格は好きだけど、申し訳ない、あなたの面倒は見切れない。別の道に行ったほうがいい」
ダメ元で電話をかけ、履歴書を送った日から、1年半程が経っていた。瀬尾氏の短い修業時代は、いったん幕を閉じた。
「大学時代の友人がファッションとインテリアのスタイリストの手伝いをしていて、彼女から、食器のスタイリストを紹介してもらいました。忙しいときだけのお手伝いです。出版社に付いて行ったときに、編集者から、2色刷りのページでよかったらお料理の仕事をやってみないかと声をかけていただきました。雑誌や書籍など、紙の媒体がとても元気だった時代のことで、運がよかっただけです。でもこれが、私の料理研究家としての第一歩でしたね」
料理学校も出ず、師事した先生のもとも1年半で離れた瀬尾氏はそれ以来、まったくの独学で料理研究家の道を歩み始めた。
「私の料理は自己流です。板前さんたちの教科書みたいな本を買ってきて出汁の取り方から勉強しました。そこで大事にしていたのは、教科書に書いてあるとおりにやることよりも、自分がおいしいと思うやり方で作ることです。先生がいないから、それだけ失敗もしました。試行錯誤の連続。だれよりも多く失敗しているからこそ、料理が苦手だと思う方たちのどんな疑問にも答えられる自信が生まれたともいえるでしょう」
先生はおらず、教科書にも頼らない。あくまで自分の舌で確かめながらの独自の修業期間は、20年近くにおよんだ。そして2007年、『おつまみ横丁 すぐにおいしい酒の肴185』を刊行。簡単なつまみを提案したこの本は、60万部の大ヒットとなった。
失敗したときのほうが考えることは多いもの
料理研究家としての地歩を固めた瀬尾氏はその後、だれにでも作れる簡単でおいしい料理を次々に提案。2015年には『ほんとに旨い。ぜったい失敗しない。ラクうまごはんのコツ』で「料理レシピ本大賞 in Japan 2015『料理部門』」大賞を受賞した。
「難しい料理を作る料理研究家はいっぱいいる一方で、料理が苦手で困っている人もたくさんいる。料理に不慣れな人が難しい料理のレシピを読んでもうまくいきません。中火と書いてあればガスの火の大きさのことと思う人が多いけど、煮物を作るときに、同じ火の大きさでも鍋が小さければ焦がすことがあるし、逆に大きな鍋だと煮物が水っぽくなったりします。つまり、レシピが読み解けていない。大事なのはガスの火の大きさよりも鍋のなかを観察すること。何分煮るかよりも、途中で食べてみて煮え加減を調べればいい。そんな、料理の基礎中の基礎がわかる料理本を作ることは、だれよりも失敗を重ねてきた私に向いていると思ったんです」
料理が好きな人のためのものではなく、毎日の料理を負担に感じる人を助ける料理本。まさに逆転の発想によって、料理嫌いを料理好きに導くのだ。
「コツは、がんばらないこと。出汁の味が足りないと思ったら顆粒(かりゅう)の出汁で調整したらいいんです。日本の食材は質がいいから、煮るだけ、ゆでるだけ、炒めるだけでも十分おいしい。そこに気付けば毎日の料理はきっと楽しくなると思います」
HISTORY
1959年
東京都に生まれる
1969年ごろ
小学5年生くらいのとき、家にオーブントースターが届き、サクサクのおいしいサブレを焼くことに成功
1974年
高校入学。高校時代は同級生の友人宅で週の半分を過ごし、友人から料理の作り方を教えてもらう
1979年
大学入学。友人たちに手料理を振る舞ううちに、おいしい料理でみんなに喜んでもらえることに驚く
1983年〜
大学4年のときから約1年半の間、料理研究家・大原照子氏の助手となり、買い物に行く係を務める
1986年
ファストフードのフードスタイリストとなる。同時に、雑誌の料理ページに料理研究家としての初仕事が掲載される
2007年
『おつまみ横丁 すぐにおいしい酒の肴185』(池田書店)が爆発的にヒット
2012年
『一人ぶんから作れる ラクうまごはん』(新星出版社)を出版
『ほんとに旨い。ぜったい失敗しない。ラクうまごはんのコツ』(新星出版社)。
2014〜2015年
『ほんとに旨い。ぜったい失敗しない。ラクうまごはんのコツ』(新星出版社)を出版。翌年「料理レシピ本大賞 in Japan 2015『料理部門』」大賞受賞
『みそ汁はおかずです』(Gakken)。おなじみの食材で簡単に作れるレシピが満載。
2017〜2018年
『みそ汁はおかずです』(Gakken)を出版。翌年「料理レシピ本大賞 in Japan 2018『料理部門』」大賞受賞
2019年
『素材がわかる料理帖』(暮しの手帖社)を出版
『60代、ひとり暮らし。瀬尾幸子さんのがんばらない食べ方』(世界文化社)。
2024年
『60代、ひとり暮らし。瀬尾幸子さんのがんばらない食べ方』(世界文化社)を出版
取材・文/大竹 聡 写真/藤田修平