松尾スズキの代表イメージ

人物 逆転のセオリー

作家、演出家、俳優

松尾スズキ

著書の数は現在約70冊。「何でこんなに書くことがあったのかと不思議でしょうがない」という。

「大人計画」という名前をつけるとき、劇団とあえて入れなかったのは、演劇の枠を超えてさまざまなカルチャーを背負った人たちが集まる場にしたかったから。その想いは現実となって、映画、舞台、音楽など幅広い領域で活躍する人々を輩出している。このユニークな集団を率いる松尾スズキ氏は、何に悩み、いかに乗り越えてきたのか。

2024.11.25

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演劇はお客さんに届かなければ意味がないとひしひしと感じた

松尾スズキ 作家、演出家、俳優

PROFILE まつお・すずき 1962年福岡県生まれ。1988年、「大人計画」を旗揚げ。1997年、『ファンキー!~宇宙は見える所までしかない~』で第41回岸田國士戯曲賞受賞。2008年、映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』で第31回日本アカデミー賞最優秀脚本賞受賞。小説『クワイエットルームにようこそ』『老人賭博』『もう「はい」としか言えない』は芥川賞候補に、主演したテレビドラマ『ちかえもん』は第71回文化庁芸術祭優秀賞ほか受賞。2019年には正式部員は自身ひとりという「東京成人演劇部」を立ちあげ、『命、ギガ長ス』を上演。2020年、同作で第71回読売文学賞戯曲・シナリオ賞受賞、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督に就任。2023年、京都芸術大学舞台芸術研究センター教授に就任。

 俳優、劇作家、演出家、脚本家、映画監督、コラムニスト、小説家、劇団主宰と、いくつもの顔をもつ松尾スズキ氏は幼少期、家にこもりがちな少年だったという。
 「幼稚園のころに足を骨折して1ヵ月程入院したことがあるんです。そのとき同室の大人の患者さんが貸してくれた漫画が面白くて夢中になりました。赤塚不二夫、ジョージ秋山、手塚治虫といった先生たちの漫画を夢中で模写していました。外で遊ぶというよりは家にこもって、ひたすら漫画を描いている。そんな子どもでしたね」
 16歳のとき、初めての作品を雑誌に投稿した。
 「『少年ジャンプ』に15ページの漫画を初投稿したのですが、それが佳作候補に選ばれ、名前が誌面に掲載されたんですね。すごくうれしくて、もうこれでやっていけると思ってしまった。それが間違いの始まりでしたね。漫画はたくさん描いていたけれど、デッサンをきちんと勉強していないんです。絵を描くと、どうしても頭や目が大きくなったりした。だから美術の成績もよくなかったんです」
 それでも自分は絵がうまいと松尾氏は考えていた。そしてデザイン科のある大学へ進学し、漫画研究会に入り、愕然とした。
 「九州全域から学生が集まる大学で、ちゃんとデッサンを学んだ人たちの絵を見て、ああ、こうやってリアリティーを伝えていくのかと、ようやくわかったんです。僕はそれまで井のなかの蛙だったから、打ちひしがれましたね」
 ギャグの感性だけは負けていないという自負はあったものの、松尾氏は漫画研究会を辞める。そんなある日、ふと演劇研究会を覗き、いきなりその世界にハマってしまったという。
 「ひとりで漫画ばかり描いていたときも、目立ちたい想いはありました。でも、自分が劇団に入って俳優をやるなんて夢にも思っていなかった。内にこもった生活をしていた中学・高校のころに鬱積したエネルギーが、一気に解放されたようなところがありましたね。人生、わからないものですよ」

ちゃんとした社会人になるために上京したが

 松尾氏は演劇に没頭する。作・演出を担当し、役者として舞台に立つ活動を3年続けた。しかし、4年生になると、就職のために演劇生活にピリオドを打った。先輩で卒業後にも演劇をしている人がおらず、道が見えなかったのだ。
 「九州の広告会社を何社も受けたんですが全然受からない。舞台上で表現するのと実社会におけるコミュニケーションは、やっぱり違ったんですね。それでも食うために仕方がないと割り切り、東京の印刷会社に入りました。ところが、その会社の仕事はコンピューターを使って版下という印刷用の原稿を作成する仕事だったんです。コンピューターなんて見たこともなかった僕はこの仕事が苦手で、とても続かなかった」
 大学入学時に漫画で挫折し、没頭した芝居で暮らしを立てることにも見切りをつけた。就職もうまくいかない。松尾氏の挫折は、この若いころに集中している。
 「僕は親に、ちゃんとした人間になれるのかということをすごく危ぶまれていたので、なんとか社会人になろうと上京し、就職したんですが、1年で辞めてしまった。どうやって生きていけばいいんだろうって思いました。幸い、学生時代の先輩が東京の出版社に入っていて、僕が絵を描くことを知っていたので、イラストの仕事を回してくれたんです。それをこなせば、月に十数万円にはなった。当時は3万円の部屋に住んでいたので、なんとか生きていけた。そんな生活を2年くらいしたのか。芝居を観たり映画を観たりしながら、なんとかこういう世界に食い込めないかと考えていました」

イラストで食えるなら、演劇で失敗してもいいと思った

 「失敗してもいい。なんとかやってみようと決心しました。不思議なことですが、あまり友達もいない僕が、芝居のチケットを何十枚も売りさばくことができました。背水の陣だったのでしょう」
 学生劇団で3年の経験を積んでいた松尾氏の大人計画は、順調に滑り出した。初演の舞台を観に来た劇作家が雑誌でとりあげてくれ、3回目の公演を終えたあたりでテレビ番組にとりあげられることも決まった。松尾氏はいけるぞと思ったが、そんなときにピンチは訪れた。
 「制作担当の女性とひどい喧嘩をして、それを見た劇団員たちが呆れて次々と辞めていったんです。芝居の素人の彼らに対して、僕がすぐにイラついて𠮟ったことも原因です。育て方がわからなかった。彼らからしたら、売れてもいないヤツにそこまでいわれる筋合いはないと思ったのでしょう」
 このときは、ほかの劇団のメンバーをかき集めてテレビ出演はこなした。大人計画は、下北沢の有名な劇場である「ザ・スズナリ」そして「本多劇場」へと活躍の舞台を広げていく。しかし、本多劇場での公演が決まったころ、俳優の温水洋一氏が抜けてしまう。
 「芝居はうまいし、いちばんファンがついていた役者でしたから、どうしたものか、困惑しました。団員のみんなにも危機感が生まれ、訓練するしかないと結束力が強まりました。このころ、宮藤官九郎や阿部サダヲが伸びましたね。自分たちの力で笑いが取れる俳優になっていきました」

「個の表現者としては、奥行きをつくる時間だった」とコロナ禍を振り返る松尾氏。さまざまなことに同時進行で取り組むが、絵を描くとき、執筆するときなどそれぞれ場所を変えることにしている。

教えられないからやって見せるしかない

 危機にあって、リーダーとしての松尾氏は、自分をさらけ出したという。
 「自分が恥をかかないかぎりついてこないと思いました。松尾がバカな姿を見せてくれるなら俺たちもやろうと。それがなかったらみんな心が折れていたと思います。僕には教えるスキルがないから、やって見せるしかない。火のなかに飛び込んで、こうやるんだと見せるしかなかったんです」
 こうして看板俳優が抜けるという非常事態を乗り越えた劇団は、押しも押されもせぬ存在になっていった。
 松尾氏自身においても、岸田國士戯曲賞を受賞し、映画の脚本では日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。小説では芥川賞候補となり、コラムやエッセイも含めると、著作が現在は70冊を超える書き手となった。
 しかし、コロナ禍では、何度かの公演中止など、厳しい事態に直面した。
 「演劇だけでなく、ライブパフォーマンスに携わる人たちにとっては本当にたいへんな時期でした。仕事を辞めてしまった人もいるし、若い俳優が自殺したりしたことにも、胸を痛めていました。ただ、不幸中の幸いというか、うちの劇団はなんとか潰れなかった。もし、若いころにコロナ禍に見舞われていたら、とても続かなかっただろうと思います」
 コロナ禍にあって松尾氏は、『フリムンシスターズ』というミュージカルを上演した。幕が開いたとき松尾氏は、観客から、一緒に盛り立てていこうという空気を感じたという。そして、千秋楽のカーテンコールで松尾氏は観客に向かって拍手を送ったという。
 「演劇は、お客さんに届かなければ意味がないんだということを、ひしひしと感じて、そうしたら、自然と拍手していましたね」
 コロナ禍を経て松尾氏は、絵を描いているという。
 「原点に戻っているということでしょう。俳優を本格的に育てることも今年から始めています」
 松尾氏の創作意欲はまだまだ旺盛なのである。

HISTORY

1962年

福岡県北九州市に生まれる

1978年

高校在学中『少年ジャンプ』の漫画賞の佳作候補となる

1962年

福岡県北九州市に生まれる

20歳ごろ、大学生時代の松尾氏。演劇を仕事にするとは思っていなかった。

1981年~

九州産業大学芸術学部デザイン学科入学。演劇研究会に入会、その後、学外で劇団を作る

1986年

大学卒業後、上京し、印刷会社に就職

1987年

退職し、イラストレーターとして生計を立てる

1988年

「大人計画」を旗揚げ。演劇ユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」の若手ユニットに参加

1991年

『ふくすけ』(悪人会議プロデュース)で下北沢の「ザ・スズナリ」に進出

『愛の罰~生まれつきならしかたない~』(撮影/滝本淳助)。

1994年

『愛の罰〜生まれつきならしかたない〜』で下北沢の「本多劇場」に進出

1997年

『ファンキー!〜宇宙は見える所までしかない〜』で第41回岸田國士戯曲賞受賞

『キレイ~神様と待ち合わせした女~』(撮影/細野晋司)。

2000年

『キレイ〜神様と待ち合わせした女〜』で「Bunkamuraシアターコクーン」に進出

2004年

映画監督としてのデビュー作『恋の門』が公開。ベネチア国際映画祭に出品

2006年

小説『クワイエットルームにようこそ』が第134回芥川賞候補に

2008年

映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』で第31回日本アカデミー賞最優秀脚本賞受賞

2010年

小説『老人賭博』が第142回芥川賞候補に

2018年

小説『もう「はい」としか言えない』が第159回芥川賞候補に

2019年

正式部員は自身ひとりという「東京成人演劇部」を立ちあげる

2020年

前年に東京成人演劇部により上演された『命、ギガ長ス』が第71 回読売文学賞戯曲・シナリオ賞受賞。Bunkamuraシアターコクーン芸術監督に就任。『フリムンシスターズ』を上演

2023年

京都芸術大学舞台芸術研究センター教授に就任。初の個展「松尾スズキの芸術ぽぽぽい」開催

取材・文/大竹 聡 写真/鈴木 伸

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